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情熱店長ブログ

名字の言6月16日掲載分聖教新聞社より引用

 脚本家の山田太一氏が、親子の対話について記している▼子どもが聞く流行の音楽を無理に分かろうとするより、親は親で浪花節の味わいを愛し、集めたレコードに指一本触れさせない関係の方がよい。要は、親が子の前で「どんな人間として立ち現れているか」だと(『日本の名随筆』作品社)。親は子どもに寄り添うだけでなく、屹立した一個の人間像を示す必要がある▼雪深い山村で広布草創を生きた壮年を、かつて取材した。同席した息子さんは、父を尊敬しつつも「俺には俺の生き方がある」と未入会だった▼ある年、父が「広宣貢献賞」を受けた。授与式は高齢で体調不良の父に代わり、彼が出席した。授与の瞬間、父の励ましに立ち上がり、幸福の人生を開いた同志たちから万雷の拍手が。感動した彼は、〝自身の生き方として、信心を受け継ぐ〟と決めた▼「親孝行というのは、親から見た孝行ではないんだ。自分たちが、生きていく活躍の場を見いだしていくのが、本当の親孝行なんだ」と池田名誉会長。父は今世の使命を果たして逝った。だが、妙法で結ばれた生命は生死を超える。親孝行は今も続く。一人のよき人間でありたいと信仰に励むことが、そのまま孝養の道となる。きょうは「父の日」。(白)

「父の日」私はいつも心の底で尊敬と感謝の気持ちをもって父を慕っています。「今日の名字の言」で登場した方と同じような思いをした経験が私にも有ります。父が初めて創価学会に入会したのは昭和38年2月、折伏に座談会に学会活動に励んで行く中、どうしようもない病苦・経済苦がゆっくりと薄紙をはぐように宿命を転換してきた歴史には凄まじいものがありました。私が思春期のころそんな父に向かって酷い(むごい)言葉を発した経験もありました。あれから40年、私は父のおかげで男子部、壮年部と広布の道をまっしぐらに歩むことが出来ました。現在もおかげさまで父は健在、そして今なお地域広布に少しでも貢献していくんだと日々勇んで活動も推進、地区の皆様からも信頼厚い様です。私も三人の子供に恵まれ、子供全員を創価の学び舎へ、三女の入学式には父を本会場に招待、今子供たちも皆社会人となりそれぞれ信心を継承していますが、その根源は父の信心の結晶であると私は確信しています。今日はそんな父の日、私の尊敬する大切な父の日です。(島)

名字の言6月15日掲載分聖教新聞社より引用

歴史には常に転換点がある。南アフリカ共和国では1976年6月16日、アパルトヘイト(人種隔離)に対する国内外の怒りが爆発した▼それは、黒人学生らのデモ行進(ソウェト蜂起)がきっかけだった。一方的な当局の教育方針に抗議した際、13歳の男子生徒をはじめ子どもたちが、警官隊の発砲の犠牲となった▼この事件以降、正義の行動が加速し、あしき政策は91年に完全撤廃された。この日は現在、南アの祝日「青年の日」となり、アフリカ統一機構(現・アフリカ連合)によって「アフリカの子どもの日」と定められている▼流血の惨事は繰り返してはならないが、歴史転換の原動力、厚い壁に風穴を開ける突破力は、若い力の結集にこそある。勢いある青年群を先頭に皆が立ち上がり不断の挑戦を続ける時、時代は必ず変わる。南アのマンデラ元大統領は「困難や挫折にくじけず、絶望的なときでも闘うのを諦めてはならない」(『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』長田雅子訳、明石書店)と語った▼〝転換点〟は渦中では分からない。だが、〝ここが転換点〟と決めて戦うことはできる。総本部完成に向かって、地域広布の大城の構築に挑む我らは、まさに今、歴史を開く大転換点に立っている。(杏)

私は歴史の転換点とは自分自身の人間革命の瞬間であると考えています。私の人生においても様々な経緯がありました。それはまさしく山あり、谷あり、谷あり谷あり、いつも背水の陣であったのではないと思っています。最近「今は最悪の状況かもしれないが最高の状態でもある」と実感できたことがありました。人間は自分一人ではありません。近くは親子、また近所の人たちなど多少にかかわらず人間関係があります。たとえ自分自身が四面楚歌であったとしても、決して一人ではないのです。そして日常的にある自分自身の壁は、その人があきらめない限り、想像も出来ないよう様々な形で乗り越えることが出来、その人の人生の歴史となっていくのだと思っています。(島)

名字の言6月14日掲載分聖教新聞社より引用

 日に日に建設が進む総本部。足場の一部がはずれ、力強い列柱が姿を現し始めた▼東京・西神田から信濃町32番地に学会本部が移転したのは1953年(昭和28年)。実はそれ以前、戸田第2代会長が信濃町を訪れている。43年(同18年)2月ごろ、信濃町33番地の知人宅に赴き、折伏し入会させる。戦争が激化し、統制が強まる中、「信教の自由」を貫く人権闘争を繰り広げた地が信濃町だった▼この布教活動が具体的事由の一つとなり、戸田会長は7月、治安維持法違反ならびに不敬罪容疑で逮捕・投獄される。同月、牧口初代会長も捕らわれの身に。弾圧に一歩も引かず、牧口会長は殉教した▼信濃町駅のほど近くには「5・15」事件の凶弾に倒れた犬養毅首相の私邸があった。「2・26」事件では、信濃町周辺の斎藤実内大臣の家に反乱部隊が乱入。駅の南に広がる神宮外苑では、牧口・戸田会長の逮捕3カ月後、学徒出陣の壮行会が行われた▼暗い軍靴の足音と、崇高な恩師の人権闘争の歴史を刻む信濃町に、法難70年の今年、総本部が建つ。それは不惜身命の魂を継ぎ、妙法という「平和の種」を広げた池田名誉会長と、共戦の同志の奮闘によって築かれる「師弟の大城」であり、世界平和の大殿堂である。(会)

以前男子部の時に「信濃町は信心が濃い町である」と伝え聞いたことがある。今日の名字の言を読み進むうち、一段、又一段深い歴史があることを学んだ気がする。すべてに意味がある、表面だけではとらえきれない大切なことだと思う。軽々に知りもせずに判断し決めつけてはいけないと思った。特に人に歴史あり。さまざまな人生をさまざまな境遇で生き、人生を全うする。妙法を保った尊き人生を師と共に同志とともに。(島)

名字の言6月13日掲載分聖教新聞社より引用

 

 「あれに行こうと思うんやけど」「〝あれ〟って何?」「座談会」「じゃあ、待っとるよ」▼20年ぶりに行きたいという婦人からは、「座談会」という言葉がすぐに出てこなかった。普段から関わってきた友は一瞬、耳を疑った。彼女の家を訪ねるたびに門前払いされてきたからだ。それでも笑みを絶やさず、足を運び続けていた▼冒頭の会話は、婦人の家に初めて上がった折のこと。仏壇はきれいに掃除され、具体的な祈念項目が書き出されていた。彼女は夫の病気を機に勤行を始めていた。〝学会活動に参加しないので勤行もおろそかなのでは〟と思った自分を、友は心から恥じた▼「病によりて道心はをこり候」(御書1480㌻)。人は、何がきっかけで発心するか分からない。だから、相手が一歩踏み出そうと思ったとき、気軽に相談される存在でありたい。「寄り添う」とは、そういうことだろう。友は言う。「日常的な関わりが大事です。『この人と一緒に』と思われる人間関係を築く。そのためには日頃から通わなきゃいけん」▼婦人が出席した座談会では、参加者が〝今の思い〟を漢字1文字で表すコーナーがあった。彼女は「続」と書き、「この信心を続けていきます」と。20年の時を埋める温かい拍手に包まれた。(側)

「持続・地道」道のりは遠く感じられるかもしれないが、それが最も堅実な生き方ではないのか?私は今壮年部です、毎日が怒涛の如く忙しく感じている日々です。しかし、それは感じであり感覚でしかないのではないかと思っています。昨年末一人の壮年部から「癌」であると医師から診断されたと聞かされました。翌日より朝9時に毎日先生のご指導をメモ書きしたものを2週間以上続けた事がありました。はじめは驚き、そして無理しなくていいよ!そしてここまで気にしてくれてと感謝され、絶対克服します!と決意まで披露してくれました。頑張ろう!ではなく、みんなすでに頑張っている!それよりも自分でできることを地道に持続する。寄り添いそして同苦する。それが一番ではないか?わたしはそう思っています。(島)

名字の言6月12日掲載分聖教新聞社より引用

日中友好の歴史に名を残す功労者の一人に、王一亭がいる。上海で活躍した実業家、書画家で、孫文の革命結社「中国同盟会」に身を置いた。90年前、関東大震災(1923年)の渦中に私財を投じて、真っ先に被災者の支援を行った。孫文を葬る中山陵の設計にも携わった▼その王一亭の子孫が東京・目黒駅の近くに、長く中華料理店を開いており、先ごろ、王氏ゆかりの人々が集まった。その場に招かれた壮年部員がいる。「集った皆さまは、日中国交正常化と民間外交に果たした池田先生の功績をよくご存じでした」と喜んだ▼戸田第2代会長の自宅は、目黒駅から近い港区白金台にあった。店主によれば、戸田会長とともに、若き日の池田名誉会長も店を利用したことがあると言い、歓談は大いに盛り上がった▼「知り合いを次々にたどっていけば、『6人』で世界中の人とつながっている」といわれる。「スモール・ワールド現象」と呼ばれるが、最近はインターネット上の結びつきが爆発的に増え、「6人」より少なくなったという説もある▼思いがけない人と、思いがけない場所で友情の糸がつながると、新しい価値が生まれ、人生が豊かになる。梅雨空にめげず、そんな素晴らしい出会いを重ねたい。(辰)

普段の生活の中で常に心がけていなければ、自分自身が学ぶという事は中々出来ないのではないかと思う。聖教新聞は「名字の言」をはじめ、「先生のご指導」「大聖人の御書・教学の研鑽」「全国の学会員の体験談」など『学ぶ』きっかけは目白押し、今日の名字の言は、1920年年代の中国の孫文と2013年の東京目黒の中華料理店、そこに集う人々の関係が面白い、子孫を残す、人材を残す、そこに新たな歴史や文化が始まる。私もそんな歴史を刻める一人でありたいと思う(島)

名字の言6月11日掲載分聖教新聞社より引用

サッカー日本代表が、ワールドカップ出場を決めた翌日の記者会見。お祭りムードをよそに、海外の強豪クラブに所属する選手の一人が、活を入れるように課題を語っていた▼それは「個」を高めること。世界の舞台では、技術、精神力を併せ持つ選手たちが、強烈な「個性」をぶつけ合う。そこに遠慮や躊躇は禁物だ。だから一人一人が、もっと個性を磨く。闘志を前面に出す。でなければ、太刀打ちできない。チーム全員に積極性を促す姿に、感銘を受けた▼どんな分野でも、大事を成すには団結が重要だ。では、団結の鍵は何か。池田名誉会長は「一見、矛盾するようであるが、自らが『一人立つ』ことである」と述べている。人ではない。環境でもない。自分が動き、汗を流す。その率先の姿に、人々も心から続く。それが団結を生む原理だろう▼日蓮大聖人は「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」(御書232㌻)と仰せになり、民衆救済の行動を展開された。「我……」と3度も繰り返された誓願には、まさに「一人立つ」御精神が烈々と脈打っている▼総本部完成とともに、万年の民衆城を築く本年。わが地域の幸福責任者は誰か。自分である。いつ立ち上がるのか。今である。(誠)

朝、聖教新聞が届く(うちの奥様が配達してくれています)うれしいものですね!名字の言も毎回、世の話題そして記者さんが取材され感動した事実、また大聖人の御書や先生のご指導と繋がり、本当に素晴らし内容でありながらしかもコンパクトにまとまっている。「名字の言」はすごい!と実感せずに入られません。毎朝拝見させていただいていますが、常に私自身の内面に様々な刺激を与えてくれ、種々触発され自分の生命に刺激を受けています。私自身が「個」であり、私自身が家庭、社会、組織の一員として「個」を高め、自身の使命を感じ団結して行こうと決意した時に、私の心に勇気と希望が湧きあがり、私自身と共に縁する皆様方の幸福へと続くのでは!と深く感じ入っています(島)

今日6月10日は聖教新聞休刊日です!

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今日は聖教新聞の休刊日です

毎朝、散歩をしていますが

珍しい「サボテンの花」が咲いていました

今週も皆様にとって素晴らしい一週間でありますように

 

名字の言6月9日掲載分聖教新聞社より引用

上京し、板前で働く青年にボーナスが出た。故郷の母親に仕送りをしようと手紙をしたためた。「三万円を送ります」と書きかけ、筆が止まる。少し考えた後、「三」の字に2本の縦線を書き加えて、「五」にした▼昭和のテレビドラマ「前略おふくろ様」の一場面。時代からして大層な額だったはずだ。買いたいものもあったろう。そんな私欲を軽々と越えた母への思いに、胸が熱くなる▼2年前に入会した男子部員。彼は母子家庭で、7人きょうだいの長男だった。食べ盛りの子どもを育てた苦労を思うと、母への感謝は尽きない。彼は交代勤務の工場で働き、家計を支えた▼だが、母は信心に対しては理解してくれなかった。ある日、電話で口論になってしまう。彼は言った。「僕が信心を始めたのは、お母さんに幸せになってほしいからなんだ」。その言葉がうれしくて、受話器の向こうで母は泣いた▼「『母を悲しませない心』『母に喜んでもらう心』――それこそが、平和を創る出発点」と池田名誉会長。先の母は、彼の真心が通じ、後日、入会した。〝母のために!〟との思いが幸福の道を開いた。明日は「婦人部の日」。未来を育み、地域を守る「広布の母」の笑顔のために、心新たな前進を誓いたい。(城)

今から36年前私が20代になったころ、父親が飲食店を経営したいと言ったことがありました。私は長男でしたので、その意思に従い調理に道に入ったことを思い出しました。和食・洋食と経験し横浜で調理士の免許も修得しました。父親の思いに応えた就職でしたが。自分自身も本当に楽しく良い経験を青春時代にできてとてもよかったと思っています。そして30年前に父から仏壇やを一緒にやろうと言われ現在に至っています。その意味では親孝行であったのかもしれません。

名字の言6月8日掲載分聖教新聞社より引用

早朝、歩行器を使う年配の壮年が集合住宅の踊り場で転んだ。幸い、軽傷だった。第1発見者は本紙の配達員。自治会の人々や近隣の学会員が迅速に対応し、大事を免れた▼「お母さんには本当にお世話になったんです」。転んだ壮年の母親を、自治会副会長の女性がしみじみ思い出していた。壮年の母は、少しうるさいぐらいの世話焼き。料理が得意で「よかったら食べて」と隣近所に振る舞い、若い人が平らげるのを特に喜んだ▼亡くなって6年以上経つが、地域の人々を大事にする生き方は、青空に残る飛行機雲のように皆の胸に残っている。「孤立社会」といわれ続けているが、人と人のつながりこそ生きる土台であると、あらためて教えられた▼他者とつながるためには努力が必要だ。昭和女子大学の坂東眞理子学長が書いていた。大切なのは「自分から」働き掛けることだ、と。そして、受けた恩を返す”恩返し”にこだわらず、誰であれ、助けを必要としている人を助け、助け合いの輪をつないでいく”恩渡し”を呼び掛けている(『つなぐ力つながる作法』潮出版社)▼「人のために灯をともせば、自分の前も明るくなる」(御書1598ページ、通解)。他者に尽くす生き方が、地域を支える”希望の光”となる。(川)  (2013年6月8日掲載分から引用)

私の住んでいるご近所でも、最近は高齢の方が多くなり、介護、認知の方も増えてきています。地区内、ブロック内でも「学会の方は親切ですね!」と皆さんからお声掛け頂いています。隣近所から人情味ある地域を作り上げていくのも私たちの大切な活動だと実感しています。 

名字の言6月7日掲載分聖教新聞社より引用

「有志の者、相集まり候」――150年前の6月7日、23歳の青年が長州藩に提出した意見書は、常識破りだった▼「藩士、陪臣、軽卒を選ばず、同様に交わり、力量を蓄え、堅固の隊に調え申す」。幕末志士・高杉晋作による「奇兵隊結成綱領」の一節だ(一坂太郎著『高杉晋作の手紙』講談社、現代表記に改めた)。戦は武士の仕事という常識を否定。身分を問わず倒幕の勢力を糾合した▼晋作は奇兵隊を「有志隊」とも呼んだ。作家の山岡荘八氏は、本紙に連載した小説『高杉晋作』(1962~64年)で考察している。「平等にも二つの種類がある。われらはみな凡人である……と称して平均化すると(中略)士気はあがるわけがなかった」「われらもまた国難をになう武士であり得るのだ……となると、誰も彼もが昂然として気風のたかぶりを見せてくれる」▼維新の地・山口には、圧倒的な広布拡大を遂げた昭和31年の「開拓闘争」が刻まれる。若き池田名誉会長と共に奮闘した友の大半は新入会で、経済苦に悩む人も多かった。無名の庶民が「地涌の菩薩」の使命に奮い立ち、築いた歴史だ▼山岡氏は、晋作に言わせた。「諸君こそは新しい日本国の先駆者なのだ」と。「志」のもとに民衆が結合する時、時代は動く。(鉄)

私達の学んでいる仏法また池田先生のご指導では、私たちは師子王の子であり使命ある尊い仏子であると、また羊1,000匹より獅子一匹であると。であるならば自身の使命を自身が自覚し自分の思いで広布の為に戦うべきではないか!よく青年部時代に熱く語ったことを思い出しました。