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情熱店長ブログ

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十九を読んだ感想と決意 島幸弘

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日蓮大聖人は、建長五年(一二五三年)四月二十八日、清澄寺で立宗宣言された折の最初の説法から、既に念仏の教えの誤りを指摘されている。当時、念仏信仰は、民衆の易行として諸宗が認めていたことに加え、専修念仏を説く法然の門下によって弘められ、大流行していたのである。易行は、難行に対する語で、易しい修行を意味する。また、専修念仏とは、ただひたすら念仏を称えることによって、死して後に、西方極楽浄土に行けるという教えである。
世間には飢饉、疫病などが広がり、末法思想に基づく厭世主義が蔓延していた。この世を「穢土」とし、西方十万億土という他土での往生のみに救いがあるという念仏信仰に、人びとの心は傾斜していった。しかし、その教えは、人びとを現実から逃避させ、他力のみにすがらせ、無気力にさせる。つまり、幸福に向かって自ら努力することを放棄させ、社会の向上、発展への意欲を奪い取っていった。まさに、人間を弱くする働きをなしたのである。しかも、法然は、法華経を含め、念仏以外の一切の教えを「捨閉閣抛」、すなわち「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いていた。文証、理証、現証のいずれをも無視した、この独善的で排他的な主張を、法然門下の弟子たちは盛んに繰り返してきたのである。法華経は、皆が等しく仏の生命を具えていることを説き明かした万人成仏の教えである。法華経以外の教えが、生命の部分観にすぎないのに対して、生命を余すところなく説き明かした円教の教えである。このころ、法然の弟子である念仏僧は、幕府の権力者に取り入って、念仏は、ますます隆盛を誇りつつあった。それを放置しておけば、正法が踏みにじられ、民衆の苦悩は、ますます深刻化していく。ゆえに大聖人は、「立正安国論」を幕府の実権を握っていた北条時頼に提出し、そのなかで、世の混乱と不幸の元凶が念仏にあることを説き、諫めたのである。(聖教新聞より転載)
「日蓮大聖人の仏法の真髄:万人成仏:自分自身の仏の生命力によって自分自身が自他共の幸福を築くと言う信仰である。私たち創価同志はこの根本思想を自分自身の根幹に据えて、日々自分自身が人間革命しながら絶対的幸福境涯を確立して行きたいものです」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十八を読んだ感想と決意 島幸弘

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宗教者が、自ら信奉する教えに対して強い確信をいだくのは当然であり、それなくしては、布教もできないし、その教えを精神の揺るがぬ柱としていくこともできない。大切なことは、その主張に確たる裏付けがあり、検証に耐えうるかどうかということである。確かな裏付けのない確信は、盲信であり、独善にすぎない。日蓮大聖人は「法華経最第一」とし、その法華経の肝要こそが南無妙法蓮華経であると宣言された。そして、確かな根拠を示さずに法華経を否定する諸宗の誤りを、鋭く指摘していった。それをもって大聖人を、独善的、非寛容、排他的などという批判がある。しかし、全く的外れな見方といえる。大聖人は、比叡山など各地で諸宗諸経の修学に励み、文証、理証、現証のうえから、それぞれの教えを客観的に比較研究して精査し、結論されたのだ。つまり精緻な検証を踏まえての確信である。また、仏教の真実の教えとは何かについて、広く論議し、語り合うことを、諸宗の僧らに呼びかけ続けてきた。そして「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(御書二三二ページ)と、かりに自分以上の智者がより正しく深い教えを示すのであれば、それに従おうと明言されているのだ。そこには、宗教こそ人間の生き方、幸・不幸を決する根本の教えであるがゆえに、徹して独善を排して真実を究明し、公にしていかなければならないという、真摯な探究、求道の姿勢がある。同時に、破られることなど絶対にないとの、大確信に基づいた御言葉であることはいうまでもない。
堅固な宗教的信念をもって、開かれた議論をしていくことと、排他性、非寛容とは全く異なる。理性的な宗教批判は、宗教の教えを検証し、また向上させるうえで、むしろ不可欠な要件といえる。一貫して公的な場での法論を主張する大聖人に対して、諸宗の僧らは、それを拒み、幕府の権力者と結託し、迫害、弾圧を加えた。(聖教新聞より転載)
 
「世界平和を実現して行くためには、個人の考えが平和主義、人間主義でなければなりません、個々人の考え方は顔の形が違うように千差万別です。宗教は人間の根本思想なので、宗教間の対話、特に宗教家、庶民ともに大いにして行くべきだと思います。
問題は協和のための話し合いであり宗教論議に陥らないという条付きにしなければなりません。もちろん私は日蓮大聖人の仏法を信奉:信心の師匠は池田先生です。世界のあらゆる諸問題は人間としての根本思想を各人がしっかりと持ちそのように行動して行く生き方をして行くしかないのではないかと思います!」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十七を読んだ感想と決意 島幸弘

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山本伸一は、ウィルソン教授との会談は極めて有意義であったと感じた。多くの意見に賛同することができた。特に、教授が、宗教が原理主義、教条主義に陥ってしまうのを憂慮し、警鐘を発していたことに、大きな共感を覚えた。人間も、また宗教も、社会、時代と共に生きている。そして、宗教の創始者も、その社会、その時代のなかで教えを説いてきた。したがって、教えには、不変の法理とともに、国や地域の文化・習慣等の違い、また時代の変化によって、柔軟な対応が求められる可変的な部分とがある。仏法は、「随方毘尼」という考え方に立っている。仏法の本義に違わない限り、各地域の文化、風俗、習慣や、時代の風習に随うべきだというものである。それは、社会、時代の違い、変化に対応することの大切さを示すだけでなく、文化などの差異を、むしろ積極的に尊重していくことを教えているといえよう。この「随方毘尼」という視座の欠落が、原理主義、教条主義といってよい。自分たちの宗教の教えをはじめ、文化、風俗、習慣などを、ことごとく「絶対善」であるとし、多様性や変化を受け入れようとしない在り方である。それは、結局、自分たちと異なるものを、一方的に「悪」と断じて、差別、排斥していくことになる。
「人間は宗教的信念(Conscience)をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない」(注)とは、フランスの哲学・数学・物理学者のパスカルの鋭い洞察である。つまり、宗教は、諸刃の剣となるという認識を忘れてはなるまい。本来、宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和のためにこそある。宗教の復権とは、宗教がその本来の使命を果たすことであり、それには、宗教の在り方を問い続けていく作業が必要となる。自らの不断の改革、向上があってこそ、宗教は社会改革の偉大な力となるからだ。(聖教新聞より転載)
 
「宗教の原理主義・教条主義については論を待たない、世界の紛争、テロ等見ればわかる、そして庶民が難民となり生活ができなくなっている。仏法の「随方毘尼」に考え方は柔軟でりしかも本義を損なう事はない、布教して行くと言う事の根本は人を幸福へと導く事である。自分自らが原理・教条主義になっていないか?「随方毘尼」の考え方で人との出会いを大切にしているのか?世界広布と言っても自分からのものであると思って今日も行動して行こう!」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十六を読んだ感想と決意、島幸弘

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文豪トルストイが述べた“人間が宗教なしでは生きられない理由”を、弟子のビリューコフは、次の六つにまとめている。(注)
 「第一に、宗教のみが善悪の決定を与えるからである」
 「第二に、宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを知ることが決してできないからである」
 「第三に、ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである」
 「第四に、宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである」
 「第五に、宗教のみが人間に生の意義を与えるからである」
 「第六に、宗教のみが人間の平等を樹立するからである」
 ――それは、人間の幸福、世界の平和を実現するうえで、宗教の存在が不可欠であることを示すものといえよう。
 ウィルソン教授と山本伸一との会談では、今後、宗教が担うべき使命などについて、意見の交換が行われた。
 そのなかで伸一は、こう要望した。
 「ウィルソン先生にお願いしたいことは、第三者の立場から、客観的に見て創価学会へのご意見があれば、忌憚なく言っていただきたいということです。二十一世紀に向かう人類のための宗教として、学会が健全に発展していくために、私は謙虚に耳を傾けたいと思っております」
 教授は、目を輝かせながら語った。
 「会長の、そうした発言自体が、宗教者として実に進歩的なものであり、極めて大事な姿勢です」
 宗教は、過去に寄りかかり、原理主義、教条主義に陥り、時代を活性化していく活力を失ってしまうのが常であるからだという。
 教授は、「今後とも、会長とは率直に意見交換していくことを希望します」と述べた。
 そして、近い将来、さらに会談を重ね、それを対談集として出版していきたいということで、二人は意見の一致をみたのである。(聖教新聞より転載)
 
「人間は霊長類でありかなり高度な能力を持っている、だからこそ哲学さらに一歩深い宗教が生きて行くうえに必要であると思う。トルストイの宗教についての言葉にも共感ができるゆえんである。私たちの人生の師匠池田先生はウイルソン博士との対談でもしっかりと聞く耳を謙虚にもたれ、世界観を意識した行動をとっておられます。私も弟子の一分として、日々の生活行動の上でもそのようにできるように人格を形成して行きたいと決意しています」

 

小説「新・人間革命」〉 清新 五十五を読んだ感想と決意 島幸弘

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時代が変動していくなかで、宗教には、人びとの精神に、平和と幸福を創造する智慧の光を送り続ける使命と責任がある。そのために宗教者には、共に最高の真理を探究し続け、教えを自ら比較、検証し、切磋琢磨していく向上への努力が不可欠となる。それを欠いた宗教は、社会から遊離したものになりかねない。では、宗教を比較、検証するうえで求められる尺度とは何であろうか。平易に表現すれば、「人間を強くするのか、弱くするのか」「善くするのか、悪くするのか」「賢くするのか、愚かにするのか」に要約されよう。また、宗教同士は、人類のためにどれだけ貢献できるかを競い合っていくことだ。つまり、初代会長・牧口常三郎が提唱しているように、「人道的競争」に力を注いでいくのだ。武力などで相手を威服させるのではなく、自他共の幸福のために何をし、世界平和のためにどれだけ有為な人材を送り出したかなどをもって、共感、感服を勝ち取っていくのである。さらに、人類の平和、幸福のために必要な場合には、宗教の違いを超えて協力し合い、連帯していくことも大事である。

山本伸一は、本年、「七つの鐘」が鳴り終わることを思うと、未来へ、未来へと思索は広がり、二十一世紀へ向かって、人類の平和のために学会が、宗教が、進むべき道について考えざるをえなかった。そして、宗教の在り方などをめぐっての、ウィルソン教授との意見交換を大切にしていきたいと思った。伸一と教授は、その後、ヨーロッパで、日本で対談を重ね、また書簡をもって意見交換し、一九八四年(昭和五十九年)秋、英語版の対談集『社会と宗教』をイギリスのマクドナルド社から発刊する。翌年には、日本語版を講談社から刊行。それは、多くの言語に翻訳、出版されていった。西洋と日本、宗教社会学者と宗教指導者という、立場の異なる両者の対話であったが、人類の未来を展望しての精神の共鳴音は、鮮やかな響きを奏でたのである。(聖教新聞より転載)「宗教には、人びとの精神に、平和と幸福を創造する智慧の光を送り続ける使命と責任がある。「私も同感です。何のための人生か?何のために生まれてきたのか?そして今を未来をどう生きて行くのか?この精神的な根本問題にすっきりと回答でき、現実的にもすっきりと生き抜ける力の根源が信仰であると思い

ます。創価学会の信心は宗教界の王者でるとの戸田先生のご指導もありました。私自身世界最高の信仰・信心ができた。その歓びと歓喜で使命あるこの人生を勇躍前進してまいります」

 

小説「新・人間革命」〉 清新 五十五を読んだ感想と決意 島幸弘

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時代が変動していくなかで、宗教には、人びとの精神に、平和と幸福を創造する智慧の光を送り続ける使命と責任がある。そのために宗教者には、共に最高の真理を探究し続け、教えを自ら比較、検証し、切磋琢磨していく向上への努力が不可欠となる。それを欠いた宗教は、社会から遊離したものになりかねない。では、宗教を比較、検証するうえで求められる尺度とは何であろうか。平易に表現すれば、「人間を強くするのか、弱くするのか」「善くするのか、悪くするのか」「賢くするのか、愚かにするのか」に要約されよう。また、宗教同士は、人類のためにどれだけ貢献できるかを競い合っていくことだ。つまり、初代会長・牧口常三郎が提唱しているように、「人道的競争」に力を注いでいくのだ。武力などで相手を威服させるのではなく、自他共の幸福のために何をし、世界平和のためにどれだけ有為な人材を送り出したかなどをもって、共感、感服を勝ち取っていくのである。さらに、人類の平和、幸福のために必要な場合には、宗教の違いを超えて協力し合い、連帯していくことも大事である。

山本伸一は、本年、「七つの鐘」が鳴り終わることを思うと、未来へ、未来へと思索は広がり、二十一世紀へ向かって、人類の平和のために学会が、宗教が、進むべき道について考えざるをえなかった。そして、宗教の在り方などをめぐっての、ウィルソン教授との意見交換を大切にしていきたいと思った。伸一と教授は、その後、ヨーロッパで、日本で対談を重ね、また書簡をもって意見交換し、一九八四年(昭和五十九年)秋、英語版の対談集『社会と宗教』をイギリスのマクドナルド社から発刊する。翌年には、日本語版を講談社から刊行。それは、多くの言語に翻訳、出版されていった。西洋と日本、宗教社会学者と宗教指導者という、立場の異なる両者の対話であったが、人類の未来を展望しての精神の共鳴音は、鮮やかな響きを奏でたのである。(聖教新聞より転載)

「宗教には、人びとの精神に、平和と幸福を創造する智慧の光を送り続ける使命と責任がある。「私も同感です。何のための人生か?何のために生まれてきたのか?そして今を未来をどう生きて行くのか?この精神的な根本問題にすっきりと回答でき、現実的にもすっきりと生き抜ける力の根源が信仰であると思います。創価学会の信心は宗教界の王者でるとの戸田先生のご指導もありました。私自身世界最高の信仰・信心ができた。その歓びと歓喜で使命あるこの人生を勇躍前進してまいります」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十五を読んだ感想と決意 島幸弘

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伸一は、二十一世紀にあって、宗教は今以上に、社会に必要な存在となっていくかどうかを尋ねた。
 すると教授は、主に欧米における宗教事情を研究している立場から分析すると、社会的にも、個人という面でも、宗教を必要とする人は少なくなっていくのではないかとの見解を述べた。つまり、宗教離れが進んでいくというのである。しかし、憂慮の表情を浮かべて、「本来、宗教は人間にとって必要不可欠なものです」と付け加えた。
 伸一も、人びとの心が宗教から離れつつあることを強く危惧していた。近代インドの思想家ビベーカーナンダが「宗教を人間社会から取り去ったら何が残るか。獣類のすむ森にすぎない」(注)と喝破したように、宗教を失った社会も、人間も、不安の濃霧のなかで、欲望という荒波に翻弄され、漂流を余儀なくされる。そして、人類がたどり着いた先が、科学信仰、コンピューター信仰、核信仰、拝金主義等々であった。
 だが、際限なく肥大化した欲望の産物ともいうべき、それらの“信仰”は、精神の荒廃や空洞化をもたらし、人間不信を助長し、公害や人間疎外を引き起こしていった。
 科学技術も金銭も、それを人間の幸福、平和のために使っていくには、人間自身の変革が不可欠であり、そこに宗教の役割もある。(聖教新聞より転載)
 
「宗教と言う意味合いを、特に日本でははき違えているように思う、しかしそのこと自体が宗教を信仰している者たちの実証ではないのか?
我が創価学会は宗教界の王者であるならば、私達創価学会員自身が信心即生活の喜びの実証を日々痛感し自分にかかわる人々から信心している人は違うね!と評価されるべきではないのか?「鎌倉中の人々からよかりけり」(四条金吾編御書)の通りに、もっと元気・勇気・前向きでいつニコニコしている日々でありたい!」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十四を読んだ感想と決意 島幸弘

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創価学会は草創期以来、伝統的に、一人ひとりの向上に焦点を合わせて、個人指導を一切の活動の機軸としてきたことを述べた。
 また、信仰と組織の関係についても話題にのぼった。信仰が個人の内面の自由に基づいているのに対して、組織は、ともすれば人間を外側から拘束するものになりかねない。
 伸一は、組織のもたらす問題点を考慮したうえで、各人の信仰を深化するための手段として、組織は必要であるとの立場を明らかにし、教授の見解を尋ねた。
 ウィルソン教授は、まさに、それこそが宗教社会学のポイントとなるテーマであり、意見が分かれるところであるとしたうえで、概要、次のように答えた。
 ――多くの教団は、所期の目的を達成してしまうと、内部的な矛盾が露呈してくるものである。その弊害に陥らないためには、常に目的意識の高揚と、誠意と真心で結ばれた人間関係が不可欠になる。
 つまり、組織は人間のためにあるという原点を常に見失うことなく、誠意と真心という人間性の絆が強靱であることが、組織主義の弊害を克服する力になるというのだ。
 この時の語らいは、実に四時間にも及び、二人は、再会を約し合ったのである。(聖教新聞より転載)
 
「目的と目標と手段、言葉の通りすべて意味が違います。目的のために目標があり、その目標を達成するために手段を選ぶことになります。
信仰の目的は自分自身が人間革命して自他共の幸福を築く事。創価学会の組織としては世界広宣流布して行く事。個人のの幸福のために手段として創価学会がある。ここをしっかりと自覚して地域広布に邁進し社会に実証を示して行こう!」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十三を読んだ感想と決意 島幸弘

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山本伸一は、この佳節の年を迎えた感慨を胸に、恩師・戸田城聖への思いを語った。
 「私は、日々、戸田先生の指導を思い起こし、心で先生と対話しながら、広宣流布の指揮を執ってまいりました。
 戸田先生が、豊島公会堂で一般講義をされたことは、あまりにも有名であり、皆さんもよくご存じであると思います。
 ある時、『曾谷殿御返事』の講義をしてくださった。『此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候』(御書一〇五六ページ)の箇所にいたった時、先生は、『これだよ。“いまだこりず候”だよ』と強調され、こう語られたことがあります。
 『私どもは、もったいなくも日蓮大聖人の仏子である。地涌の菩薩である。なれば、わが創価学会の精神もここにある。不肖私も広宣流布のためには、“いまだこりず候”である。大聖人の御遺命を果たしゆくのだから、大難の連続であることは、当然、覚悟しなければならない! 勇気と忍耐をもつのだ』
 その言葉は、今でも私の胸に、鮮烈に残っております。
 人生には、大なり小なり、苦難はつきものです。ましてや広宣流布の大願に生きるならば、どんな大難が待ち受けているかわかりません。予想だにしない、過酷な試練があって当然です。しかし、私どもは、この“いまだこりず候”の精神で、自ら決めた使命の道を勇敢に邁進してまいりたい。
 もとより私も、その決心でおります。親愛なる同志の皆様方も、どうか、この御金言を生涯の指針として健闘し抜いてください」(聖教新聞より転載)
「人生においても組織においても忠言耳に逆らう道理はいつの世にも存在するもの、私自身も自分自身の信念は決して曲げずに貫く人生をこれからも「今だ懲りず候」この気概で胸を張って生きていこう!」

 

〈小説「新・人間革命」〉 清新 四十二を読んだ感想と決意 島幸弘

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広宣流布、世界平和の実現をわが使命と定め、その潮流を起こしていくには、なさねばならぬことはあまりにも多かった。まさに体が幾つあっても足りない状況である。しかし伸一は、常にそれを着実にこなしていった。
 時として人は、一度に幾つもの大きな課題を抱え込むと、気ばかりが焦り、結局は、何も手につかなくなり、ギブアップしてしまうことがある。
 人間が、一時にできるのは一つのことだ。ゆえに、さまざまな課題や仕事が一挙に降りかかってきた場合には、行う順番を決め、綿密なスケジュールを組んで、一瞬一瞬、一つ一つの事柄に全精魂を傾け、完璧に仕上げていくことである。
 それには、大いなる生命力が必要となる。そのために、真剣な唱題が大事になる。
 伸一の日々は、多忙を極めていたが、傍目には、いつも悠々としているように見えた。青年時代から戸田城聖のもとで激務をこなし、億劫の辛労を尽くすなかで、困難な幾つもの課題を成し遂げていく力を培ってきたからだ。まさに師の訓練の賜物であった。労苦なくして人間を磨くことはできない。
 「時は生命だ」(注)とは、文豪・魯迅の言葉である。
 時間をいかに使うか――それは、人生で何ができるかにつながっていく。時を最も有効に活用できる人こそが人生の勝利者となる。(聖教新聞より転載)少し
 
「人は物事が集中して一度に起こったように物事をとらえてしまうと混乱してします。体は一つなので少し冷静になって優先順位を自分で決めて行う事により混乱が整理されやがて整頓されていく!どれだけ池田先生から教わっているのか?計り知れない!一つ一つその事を忘れずに常に実践して行きたいものだ」