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情熱店長ブログ

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十八 (聖教新聞より転載)

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山本伸一は当初、一九八九年(平成元年)九月に中国を訪問し、建国四十周年の関連行事に出席する予定であった。しかし、諸情勢から延期を余儀なくされた。彼は代理を立て、鄧穎超あてに、明春には必ず訪問する旨の伝言を託した。また、周夫妻の等身大の肖像画を贈った。
 “中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。
 そして翌九〇年(同二年)五月、創価学会第七次訪中団と友好交流団の計二百八十一人が、大挙して中国を訪れたのである。それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、関わりを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。
 伸一と峯子は、この折、再び北京市・中南海にある鄧穎超の住居・西花庁を訪問した。
 彼女は八十六歳となり、入院中であったが、わざわざ退院して、玄関に立ち、伸一たちを迎えたのだ。彼は、駆け寄って、手を取った。彼女の足は既に不自由であり、衰弱は誰の目にも明らかであった。しかし、頭脳はいたって明晰であった。
 伸一は、祈る思いで訴えた。
 「人民のお母さんは、いつまでも、お元気でいてください。『お母さん』が元気であれば、『子どもたち』は皆、元気です」
 彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、自身が愛用してきた玉製の筆立てを、「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。
 彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。これが最後の語らいになったのである。
 鄧穎超は、二年後の九二年(同四年)七月、八十八歳で永眠する。しかし、彼女が周総理と共に結んだ、両国間の友情と信義の絆は、民衆交流の永遠の懸け橋となった。
 心は見えない。しかし、その心と心が、固く、強く結ばれてこそ、真実の友好となる。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十八を読んだ感想と決意 島幸弘

誠実なこころで自分人生を生きる!そんな思いをさらに深く決意する今回の鄧穎超さんとの語らいであったと思う。日中友好の懸け橋はこの歴史の事実があって現在に続くが、2017年の現代、時代は変化変化との池田先生のご指導の通り、政治の動静は日本との緊張が現出し末法の様相が色濃くなっている。民間外交の重要性がいや増して世界平和の大きな影響となるだろうと思う日々である。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十七(聖教新聞より転載)

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鄧穎超は、念を押すように言った。
 「一歩も引いてはいけません!」
 彼女の顔に笑みが戻った。
 「前も敵、後ろも敵」という断崖絶壁のなかで、何十年もの間、戦い続けてきた人の言は重たかった。進退は自分が決めることではあるが、山本伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。
 彼は、鄧穎超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。
 伸一は、彼女との約束と日中友好の誓いを果たすために、翌年の一九八〇年(昭和五十五年)四月、第五次訪中へと旅立った。
 この時、鄧穎超は、伸一夫妻を北京市・中南海にある西花庁に招いた。彼女が周総理と一緒に、長い歳月を過ごした住居である。
 伸一たちが通された応接間は、人民大会堂が完成するまで、総理が外国の賓客と会っていた部屋であるという。さらに、彼女は、「ぜひ、ご覧いただきたいと思っていました」と言って、中庭を案内した。海棠の花が淡い桃色のつぼみをつけ、薄紫のライラックの花が芳香を漂わせていた。
 庭を散策しながら友誼の語らいは続いた。
 伸一が次に訪中したのは、八四年(同五十九年)六月のことであった。鄧穎超は人民政治協商会議の主席として人民大会堂に伸一を迎え、中日の青年交流をさらに拡大していきたいとの希望を語った。
 五年後の八九年(平成元年)六月四日、中国では第二次天安門事件が起こった。
 以来、欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国際的に孤立した。
 伸一は思った。
 “結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。それが人間の信義であり、友情ではないか!”
 窓が開かれていてこそ対話も可能となる。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十七を読んだ感想と決意

人間の信義・人の真心は自分自身が自分に誓った自分自身の本質となる。時を経て自分自身の誓いを自らが違える事により自分自身を信用できない自分が存在してしまう事になる。素直な自分、ありのままの自分、それで良いと確信できる御書に桜梅桃李がある。桜は桜のままで良い、桜が梅になる必要はない。そのままの個性こそが世界で一つの自分自身の価値なのだ。「世界に一つだけの花」という大ヒットした歌がある。私も自分自身の価値を自ら創造してこれからも生きて行こう!

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十六 (聖教新聞より転載)

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山本伸一は、一冊のアルバムを用意していた。そこには、故・周恩来総理の日本への思いに応えたいと創価大学に植えた「周桜」、全青連の青年たちと記念植樹した周恩来桜と鄧穎超桜の「周夫婦桜」、創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。
 伸一は、アルバムを一ページ一ページ開いて、鄧穎超に見せながら、「留学生も、しっかり勉強しています」と、近況を紹介していった。彼女は、写真に視線を注ぎ、満面に笑みをたたえて言った。
 「日本へ来る前から、創価大学には、ぜひ行きたいと思っていました。しかし、その時間が取れずに残念です」
 そして、前年九月の、伸一の第四次訪中を振り返り、懐かしそうに思い出を語った。
 伸一は、その折、子々孫々の日中友好のために、周総理の精神と輝かしい事績を紹介する周恩来展の日本開催などを提案していた。
 迎賓館での語らいでは、この周恩来展をはじめ、日本訪問の印象、天皇陛下との会見の様子、また、「四つの現代化」に取り組む中国の現状などに話が及んだ。友好的な意見交換がなされ、時間は瞬く間に過ぎていった。
 鄧穎超は伸一に、「ぜひ、また中国においでください」と要請した。彼は、「必ずお伺いします。中国での再会を楽しみにしております」と笑顔で答え、約四十分間に及んだ和やかな語らいは終わった。
 皆、席を立ち、出入り口に向かった。伸一は“鄧先生には、どうしても伝えておかなければ……”と思い、口を開いた。
 「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」
 鄧穎超の足が止まった。伸一を直視した。
 「山本先生。それは、いけません。まだまだ若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります。人民の支持がある限り、辞めてはいけません」
 真剣な目であった。周総理と共に、中国の建設にすべてを捧げてきた女性指導者の目であり、人民を慈しむ母の眼であった。
 
〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十六を読んだ感想と決意 島幸弘
 
 池田先生の創価学会会長を辞めるとのニュースを私はテレビで拝見し、衝撃を受けました。当時22歳、自分自身の決意で学会活動を始めた時期であり男子部で薫陶を受けて情熱的に戦いだした時だった。その衝撃は言葉で言い表せないほど自分自身の命に鮮明に刻まれている。即座に担当の幹部に連絡を入れた事を思い出しています。人生は変化変化だよ!との師匠のご指導もありますが、私にとっても根底を揺るがす大きな変化であったことだけは事実であった。獅子よだからこそ一人立つ精神だ!私の信心の腹は決まったのだ。
 

先駆の日:第101回南三和支部セミナー開催いたしました(地元組織で壮年男子で毎月開催)

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今回は100回までの池田先生の講義の勉強会+体験談+MSTBなど通常の会合形式で行ってきました。十数年にわたり支部として創価学会壮年部大綱にある、毎月壮年・男子で池田先生のご指導・大聖人の御書など学ぶ会合が開催されることが望ましいという内容に準拠させて頂きました。初めは地区部長と相談して信心の見直しをしっかり行うための御書根本の黄金柱構築のためでした。その後体験発表も毎月行う流れ年、その後壮年・男子合同で開催、男子部コーナーも設置しました。最大で50名までの結集となりました。高齢化の波も押し寄せ、毎月楽しみにされていた方が数名亡くなり、また外に出れない壮年部も出てまいりました。今回101回を迎えるにあたり、信心の実証・功徳をさらに感じて頂くために通常の会合形式から、ポイント解説とワーク、そして質問会へと内容を進化させてはいかがでしょうか?と参加者にお聞きし承認されましたので、今回から200回に向けてのギヤチェンジを行い会合革命を行いました。内容的にも式次第の時間帯割の変更も考えることになり、より短時間で参加型であり自分自身で自分を考え確認し、個人の祈り方を再確認して功徳の実感を明確できるように工夫、体験発表を競い合うような活発な先駆の日にして行きたい!自ら喚起し学会活動ができるために毎月参加メンバーと自分自身が確認できるステージにしてまいります。
 
終了後数名に新バージョンのプレゼン・ワーク・質問会についての感想をお聞きしましたところ、実際の会合形式の場合は内容を忘れてしまうことが多かったと思います。しかし今回はワークがあり、自分が自分自身の事について考えるきっかけを頂けたので、今後祈りを変えて行くので結果が期待されます。とのお応えを頂きました。常に自分自身から組織の会合も革命して行く、バージョンアップしていくそれこそが本因妙の信心であると確信しています。

〈池田大作先生 四季の励まし〉 二月闘争65周年 心の壁を打ち破れ (聖教新聞より転載)

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新たな歴史は
 一人の挑戦から始まる。
 偉大な勝利は
 一人の戦いから始まる。
 状況を嘆いたり、
 人任せにしてばかりいては、
 何も変わらない。
 自分が変われば、
 その分、世界が変わる。

 「妙法」に、
 行き詰まりは絶対にない。
 あるのは、自分の一念に巣くう、
 臆病や諦めの壁だ。
 己心の壁を打ち破れ!
 あらゆる障害を乗り越え、
 無限に前進する力が
 信心だからである。

 「限界を破ろう!」――
 そう決めた時、
 実は自分の心の限界を、
 すでに一歩、破っている。
 その時点で、理想や目標も、
 半ば達成されているとさえ
 言ってよい。

 実践あるところには
 ドラマがある。
 ドラマがあるところに
 感動が生まれる。
 当然、失敗もあろう。
 それでも、めげずに挑み抜いた
 体験にこそ、共感が広がるのだ。
 苦闘を勝ち越えた体験談は、
 “自分には、とてもできない”と
 弱気になっている同志の、
 心の壁を打ち破る
 勇気の起爆剤となる。

 人の心を動かし、捉えるものは、
 策でもなければ、技術でもない。
 ただ誠実と熱意によるのである。
 “いかなる人も、広宣流布の味方に
 変えてみせる!”――
 この烈々たる
 祈りと勇気と勢いで、
 栄光の歴史を開くのだ。

 「これは地球が吠える声か。地球のうなり声か。地球が笑う歓呼の声か。聞こえてきたのは、水音ではなかった。雷鳴だった」――。カナダを訪れていた池田大作先生は、メンバーと共に「ナイアガラの滝」へ赴き、カメラを向けた。1981年(昭和56年)6月のことである。
 轟然と落下する膨大な水流。もうもうと立ちのぼる水煙。ナイアガラ瀑布は、約1万2000年前の氷河期に誕生したという。一瞬の停滞もなく、ほとばしる光景は、見る者を圧倒する。
 本年は、若き池田先生が広布拡大の突破口を開いた「二月闘争」から65周年。我らも満々たる生命力で、怒濤の前進を! 滝のごとく、激しく、たゆまず、堂々と!

1・26「SGIの日」各国で祝賀の集い (聖教新聞より転載)

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1・26「SGI(創価学会インタナショナル)の日」を祝賀する集いが26日、世界各地で晴れやかに開催された。
 フィリピンSGIでは、国内の4会館をはじめ、全土で1000人を超える友が仲良く集い合った。フィリピン文化会館では、アルカンタラ理事長が、若き池田大作先生が指揮を執った「二月闘争」に触れ、師恩に報いる人生をと念願した。
 世界広布の王者・ブラジルSGI。サンパウロのブラジルSGI平和講堂には、コウサカ理事長ら代表が集い、“青年拡大の年”の勝利に向け、「平和」「文化」「教育」運動をさらに力強く進めゆくことを約し合った。
 題目を根本に、教学・訪問激励・青年部育成に励むメキシコ創価学会の友はメキシコ会館で。オルダス理事長は「第2代会長の戸田先生が世界広布の旅路を夢見たメキシコの社会に希望の光を送ろう」と呼び掛けた。
 池田先生は、「青年」に焦点を当てた、本年の「SGIの日」記念提言でつづった。
 「いかなる分断の濁流も押し返す、多様性の尊重に基づいた『平和の文化』のうねりは、青年たちの友情から力強く巻き起こっていくと、私は期待してやまないのです」と。
 SGIの友は、師の期待を胸に、青年と共に、青年の心で、平和を築く希望の連帯を広げゆく。

 

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十四 (聖教新聞より転載)

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山本伸一は、中国の留学生たちに言った。
 「皆さんの入学を記念して、一緒に写真を撮りましょう」
 彼は、四人の留学生、引率してきた在日中国大使館の関係者と共にカメラに納まった。そして、皆と握手を交わし、語らいながら歩き始めた。
 「これからは、ここが皆さんの母校です。わからないことがあったら、遠慮せずに、教員や学生に相談してください。
 先輩にあたる一期生も、二期生も、真剣に勉強し、立派に成長して、巣立っていきました。皆さんも負けずに頑張ってください。
 皆さんの双肩に、中国と日本の未来がかかっています。皆さんが学んだ分だけ、中国の日本への理解は深まります。皆さんが交流を結んだ分だけ、日本の中国への理解は深まります。ともどもに平和の“金の懸け橋”を守り、築いていきましょう」
 留学生は、目を輝かせ、頷きながら、伸一の話を聞いていた。
 玄関ロビーを出てブロンズ像の前まで来ると、伸一たちの姿を見て、創大生が集まってきた。
 彼は学生たちに、留学生を紹介した。
 「中国からの三期目となる留学生が到着しました。みんなで学生歌を歌って歓迎してはどうだろうか」
 この提案を受けて、学生たちはすぐにスクラムを組んだ。留学生もその輪に加わった。
 元気な歌声が、春の夜空に響いた。
  
  紅群れ咲く つつじの丘を……
  
 創立者も、学長も、力の限り手拍子を打つ。スクラムが右に左に揺れ、熱唱が一つにとけ合い、天に舞う。
 伸一は、日中友好の未来を思い描いた。平和へと続く希望の灯を見た。青年たちの交流の姿は、明日の世界の平和図を映し出す。
 留学生たちにとっては、深い思い出を刻む“創大生第一日”となったにちがいない。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十四を読んだ感想と決意 島幸弘

中国からの留学生の受け入れについて、当時の日本は非常に閉鎖的であったと聞き及んでいる。その時代錯誤の渦中に池田先生は進んで受け入れ今日の日中友好の懸け橋として継続して素晴らしい歴史を刻んでこられた。未来にわたる世界平和の礎は剣難な道ではあるがその足跡を刻まれた先生の未来構想を私は驚嘆している。世界平和の指導者として世界の評価はいや増していく事だろう。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十三 (聖教新聞より転載)

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四月九日は、創価大学の第九回入学式であった。快晴の空のもと、正午から始まった式典に出席した創立者・山本伸一は、人生における学問の意味に触れ、“謙虚な学問探究の姿勢を貫いて、悔いなき四年間を”とスピーチし、若き知性の前途を祝福した。
 そのなかで彼は、ドイツの哲学者ジンメルの言葉を紹介した。
 「誇り高い者は自分の価値の絶対的な高さだけを気にかけ、虚栄心の強い者は自分の価値の相対的な高さだけを気にかける」(注)
 人間は、一人ひとりが尊厳無比なる固有の絶対的価値をもった存在であり、皆に固有の使命がある。その誇りをもち、自己の使命に生き抜くなかに、人生の本当の幸せも醍醐味もある。ゆえに、人生の真実の勝利は、社会の相対的な地位や立場などが決するものではないことを、伸一は訴えたのである。
 「諸君の一生の価値は、誰が決めるのでもない。ほかならぬ諸君自身が決めるのであります。他人と自分を比べて、相対次元で一喜一憂してみたり、世間の評価や流行現象のみを追ってみたりしても、詮ずるところは、それらは、いつかは、うたかたのように消え去ってしまうものであります」
 そして、他に依存した生き方ではなく、自ら決めた信念の道を貫いてほしいと念願したのである。
 入学式終了後、伸一は、来賓との懇談会に臨み、午後七時、大学の正面玄関ロビーに向かった。別科(日本語研修課程)に入学する中国からの四人の留学生が到着したのだ。
 「わが創価大学へようこそ! 創立者として、心から歓迎いたします。また、私の創った大学で学んでくださることに、深く感謝申し上げます」
 創価大学が、中国から第一期となる留学生六人を迎えたのは、一九七五年(昭和五十年)四月のことである。日中国交正常化後、初めての日本への国費留学生であった。
 以来、第三期となる。既に一期生たちは、両国友好の檜舞台に立って活躍していた。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十三を読んだ感想と決意 島幸弘

日蓮大聖人の仏法は本因妙である。自分自身がすべての因であり、すべては自分自身が主体的に信念をもって生きるという内容である。仏法哲学、生命理論、そして意識界の技術的な考え方の一つにライフスキルという言葉がある。保健機構(WHO)が日常の様々な問題や要求に対して、より建設的かつ効果的に対処するために必要不可欠な能力と定義づけた10の技術のことです。が、人間の一生はとても複雑に変化しそれを越えていく課題が千差万別で出てくる。しかして自分自身が自分で主体的に生きていくために人は常に学び進化して成長して行く必要がる。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十二(聖教新聞より転載)

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山本伸一は、全青連代表団の団長を務めた高占祥より七歳年長であった。伸一は彼を“若き友人”として尊敬し、日本で結ばれた二人の友情は色あせることはなかった。
 日中国交正常化二十周年にあたる一九九二年(平成四年)の錦秋、伸一は第八次訪中を果たす。その折、中国文化部から、伸一が両国の文化交流事業を推進、貢献してきたことに対して、授賞第一号となる「文化交流貢献賞」が贈られている。
 この授与式で証書を授与したのが、文化部常務副部長(副大臣)となっていた高占祥であった。彼は、詩歌、書道、写真への造詣も深く、記念として伸一に、「一衣帯水 源遠流長」と認めた書を贈っている。
 高占祥は、その後、全国政協委員、中国芸術撮影学会会長、中国文学芸術界連合会党組書記、中華文化促進会主席などの要職を担い、さらに中国の文化事業の発展に力を注いでいくことになる。
 また、著書も『文化力』をはじめ、『社会文化論』など数多い。
 伸一との間では、その文化力をめぐって意見交換を重ね、二〇一〇年(同二十二年)から約一年間にわたって、月刊誌『潮』誌上に対談『地球を結ぶ文化力』を連載。一二年(同二十四年)に単行本として出版された。人類を結ぶ平和の力は文化力にあることをテーマに、日中の交流の歴史や芸術、文化、宗教など、多岐にわたる語らいが展開されている。
  
 会長辞任を決めた伸一の心は、既に世界に向かって、力強く飛び立っていたのだ。
 彼は、アジアをはじめ、各地でくすぶる戦火に胸を痛め、仏法者として、人間として、今こそ、「平和の道」「人類融合の道」を開かねばならぬと決意していた。また、それは、世界の指導者、識者が心を一つにして立ち向かうべき最重要課題であると考えていた。
 伸一は、巍々堂々たる大山のごとく、未来の大空を見すえていた。周囲の囂しい喧騒は、風に揺れる樹林のざわめきにすぎなかった。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十二を読んだ感想と決意 島幸弘

人との出会い、そして絆。自分自身が人生を一巡した本年、仕事について考えた。自分の仕事はいったい何なのか?多くの責任を持っている自分自身はその責任の一つ一つを精一杯果たしていく事が仕事であるのではないか?自分自身の事業だけでなく、組織、地域、家庭、そのほか自分に縁頂いている方々に貢献していく尽くしていく、少しでも役に立っていきたいとの思いを込めて仕事ではなかろうか?日々誠実に一つ一つ大切に人とかかわっていきたいものだ。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十一(聖教新聞より転載)

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山本伸一は、先頭に立って、全青連のメンバーを案内した。
 「周桜」から数十メートルほどのところに植えられた、二本の桜の前に土が盛ってあった。木の高さは四メートルほどあり、淡いピンクの花をつけていた。向かって左側が「周恩来桜」、右側が「鄧穎超桜」である。
 一行と創価大学の学生代表らが見守るなか、記念植樹が行われた。伸一と高占祥団長がスコップを手にして、桜の根元に土をかけていった。青年たちから拍手が起こった。
 「では、一緒に記念写真を撮りましょう」
 伸一の提案で一行はカメラに納まった。
 高団長は感無量の面持ちで語り始めた。その言葉を、通訳の青年が日本語で伝えた。
 「『周桜』『周夫婦桜』には、中国との平和友好を心から考え、行動してこられた山本先生の真心が痛いほど感じられます。私は強い感動を覚えました。先生への感謝を、即興の詩に託したいと思います」
 中国語で朗々と詩を披露していった。
  「桜花時節訪東隣 意最濃来情最真
   賞花倍感栽花者 飲水常思掘井人
 (桜花の時節に東隣を訪ぬるに、意最も濃くして情最も真なり。花を賞でるに倍して感ずるは花を栽えし者、水を飲むに常に思うは井を掘りし人)」
 胸中深くこだまするような声調であった。この感謝の表明に、伸一は恐縮した。
 友誼の源泉とは、相互の心に宿る感謝の思いである。
 高占祥は中国に帰国したあと、日本訪問の喜びを詩に込め、手帳に「一衣帯水の流れは尽きず、友誼の花は万古に春なり」と中国語で記す。また、その後、子息と共に日本語の勉強を始めている。中日両国の人びとの友好交流は、永遠に続いていくことを、強く確信してのことである。
 周恩来総理は、世々代々にわたる友好を築かねばならないと、深く決意していた。
 世代から世代へ、友誼のバトンが受け継がれてこそ、真の友好となる。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十一を読んだ感想と決意 島幸弘

世代から次の世代に人と人との絆がつながれていく、中国の未来を背負っている全青連のメンバーは池田先生との出会いを感動し命に刻み中国の代表として政治などを中心に担っていく。日中問題も複雑化するグローバルな現代のバランスは一人の心の状態に大きく起因する場合もある。なんのための人生であり、国家であるのか?一人の幸せはみんなの幸せとなれるのか?