創価学会に子供のころから入っていましたが、今までなぜ念珠は使うのか?

2019年7月 6日 PM 02:39

お客様からのご質問

創価学会に子供のころから入っていましたが、今までなぜ念珠は使うのか?

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子供の時から今まで念珠を使いお題目しておりますが、急に今日なぜ念珠は使うのか?
という疑問が生じました。
もしかしたら?御書にかいてあるかもしれません・・・?
ネットで調べましたが答えを見つける事ができませんでした。

ウロウロしていたらここにたどり着きました。
もしご存じであれば教えていただけると幸いです。
宜しくお願い致します。

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メールで質問がりました。熱心な方ですね。疑問に思う事を調べる。聞いてみるって素晴らしいと思います。

日寛上人著作の「六巻抄」の中に「当家三衣抄」があります。
その中に以下の内容があります。この先はご自身でお調べくださいませ。

「問う、数珠の由来如何。

答う、夫れ数珠とは此れ乃ち下根を引接して修業を牽課するの具なり、木 子経に云わく、昔国王有り、波流梨と名づく、仏に白して言さく、我が国辺小なり、頻年寇疫し穀貴く民困しむ、我常に安んぜず、法蔵は甚広なり、遍く行ずることを得ず、唯願わくば法要を垂示したまえ、仏言さく、大王若し煩悩を滅せんと欲せば当に木 子一百八箇を貫き、常に自ら身に随え志心に南無仏・南無法・南無僧と称え、乃ち一子を過ごすべし云々。応に知るべし、木●子の円形は是れ法性の妙理を表するなり。

玄文第一に云わく、理は偏円を絶すれども円珠に寄せて理を談ず云々。

弘五上に云わく、理体缺くる無し、之れに譬うるに珠を以ってす云々。

土宗の平形は大いに所表に違うなり、一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり、数珠は須臾も身を離る可からず、故に常自随身と云うなり。」

 

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