「惜しい人」ではなく「勝利の人」
昨日まで、30年来の同志の葬儀にて、導師を務めさせていただきました。
通夜の席で、ある先輩が故人を悼んで、ふとこう呟かれました。
「本当に、惜しい男だったな……」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず、しかしきっぱりと言い返していました。
「いいえ、違います。彼は『惜しい人』なんかじゃない。見事に戦い抜き、人生を勝ち飾った『勝利の人』ですよ」と。
「令和の友人葬」の証明
今回の葬儀、私は導師として一つのテーマを持って臨みました。
それは、「令和の友人葬」の証明です。
喪主と嫁いだ一人娘とご主人でした。遠方からはそのご主人のご親族も駆けつけてくださいました。
だからこそ、私は決めました。
創価学会の専門用語はできるだけ使わないようにしよう。
一人の人間として、故人がいかに偉大だったか。生命とは永遠であるという希望を、誰の心にも届く言葉で語ろう、と。
不死鳥のドラマと成仏の相
30代後半からの、壮絶な病魔との戦い。
しかし、それは決して「不幸」な姿ではありませんでした。
倒れても倒れても、必ず笑顔で戻ってくる。その姿は、病に翻弄される弱者ではなく、病すらも使命に変える「不死鳥」のドラマそのものでした。
ご遺体と対面した時、私は息を呑みました。
30年以上のお付き合いですが、まるで20年前の青年時代に戻ったような、爽やかで少し笑みを浮かべたお顔だったのです。
これが「成仏の相」です。
何も悔いがない。やり切った。そう語りかけてくるような、崇高な勝利の姿でした。
出発の儀式(凱旋式)
参列の皆様に私はお話しました。
「ご覧ください、遺影のこの素晴らしい笑顔を。今、生きている私たちの中に、これほど晴れやかな笑顔で生きていますでしょうか?」と
大聖人の仏法では「生命は永遠である」と説いています。
葬儀は「お別れ」ではありません。故人の志を継ぎ、残された家族が前を向いて歩き出すための「出発の儀式(凱旋式)」なのです。
……と、ここまでが「導師」としての私の姿です。
荘厳な「死」と賑やかな「生」
しかし、全てを終え、ヘロヘロになって帰宅した私を待っていたのは、全く別の「戦場」でした。
待っていた孫3人のために、導師の服を脱ぐ間もなくセブンイレブンへ走り、お菓子を買って帰宅。すると、なぜか孫が5人に増殖している(次女一家も到着)。
「足りない!」と慌ててもう一度セブンイレブンへ走り、店員さんに「あれ?さっき買いましたよね?」と不思議がられ、「いや、孫が増えまして…」と笑われる始末。
整列した5人の孫たちから「ありがとう!」と言われた時、風呂に入りながら思いました。
これが「生(せい)」なんだな、と。
荘厳な「死」を見送った直後に、賑やかな「生」の躍動がある。
この「生死」の繰り返しの中にこそ、私たちの永遠の幸福はあるのだと確信しました。
導師として感じた「友人葬の真実」、そしてここでは書ききれない「孫が増殖したコンビニ事件」の全貌と私の本音は、ぜひ動画でご覧ください。
ありのままの体験を語っています。
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