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2017年2月

昨日は趣味の沖縄三線:クイチャーパラダイス20周年記念:新宿のヒルトン東京で演奏がありました

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今日は新宿ヒルトン東京で沖縄三線教室クイチャーパラダイスの設立20周年記念で三線演奏をしました。かじゃで風節と鳩間節です。宮古島の副市長、沖縄関東経営者協会など総勢400名のお客様から盛大な拍手喝采を頂きました。その後仲本光正師匠のミニコンサートとエイサー、宮古のクイチャ~とカチャシーなど参加者全員で盛り上がりました。副市長から会場があまりにも盛り上がっていたので、ここは本当に東京なの?宮古なの?とスピーチされていました。何処にいるかわかりますか~?

 

〈小説「新・人間革命」〉 大山 三十(聖教新聞より転載)

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神奈川文化会館の開館記念勤行会は、十四日、昼夜二回にわたって、同志の喜びのなか盛大に行われた。山本伸一は、いずれの勤行会にも出席し、これまでの皆の労苦に最大の感謝の意を込め、全力で励ましを送った。席上、彼は、初めて神奈川県横浜市の座談会に参加した、懐かしい思い出を語った。
「それは、三十年前(一九四九年)であったように思う。当時、私は二十一歳でした。国鉄(後のJR)鶴見線の国道駅近くの幹部のお宅が、座談会の会場であった。そこには、未入会の友人が五人、おみえになっていた。青年だけでなく、婦人も、年配の壮年も参加していました。私は、若人らしく、元気に体験を語り、師匠・戸田先生の指導を通して、大確信をもって、日蓮大聖人の仏法の偉大さを訴えていった。その五人の方々は、全員、入会を決意されたように記憶しています」弘教の最大の力は、豊富な人生経験もさることながら、御本尊への確信であり、相手の幸せを思う真剣さである。ゆえに、若くとも確信と思いやりに満ちた言葉は、人びとの生命に響き、共鳴をもたらすのだ。
「私は、この神奈川でも、弘教に、座談会に、地区講義に、個人指導にと、走りに走った。それは、すべて青年時代の楽しい有意義な思い出となっています。また、共に活動に励んだ方々は、かけがえのない忘れ得ぬ同志として、深く心に刻まれています」
伸一は思った。
 “自分の会長辞任が発表されれば、少なからず皆は驚くにちがいない。しかし、何があろうが、いささかたりとも、信心に動揺があってはならない。そのために、不動の信心の確立を叫び抜いておかねばならない”
彼は、言葉をついだ。
 「学会においても、幾つかの転機があり、乗り越えるべき節があります。いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 三十を読んだ感想と決意

いついかなる時も、すべての結果は自分自身にあります。仕事・家庭・人生すべてにおいてであります。その意味においても「一人立つ精神」とは自分自身の永遠の課題であり常に意識して生きることだと思います。一人立つ精神!なんと勇気と確信ある自分自身尾生き方でありましょうか。創価学会の信心は人生の大きな柱であり、自分自身が確信あふれる人生を送る根拠でもあります。

創価仏壇のクリーニング方法を質問されました

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桜梅桃李.comは創価学会仏壇に関する問題解決の手助けをしています。 今回はお電話でのお問合わせになります 「45年前の仏壇です。全体的にくすみが出ています。 タバコ屋お線香も随分使っていました。また扉の庄司部分も茶色になっています」 仏壇は多分ヤニで汚れていると臣ますので、ぬるいお湯に中性洗剤を少々垂らしてタオ...
 
 

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十九(聖教新聞より転載)

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迎賓館で鄧穎超と会見した翌日の四月十三日午後、山本伸一は、東京・新宿区内で、松下電器産業(後のパナソニック)の創業者である松下幸之助と懇談した。
 深い交友を重ねてきた松下翁にも、会長を辞任する意向であることを伝えておかなくてはと思った。
 「私は、次代のため、未来のために、会長を辞任し、いよいよ別の立場で働いていこうと思っています」
 松下翁は、子細を聞こうとはしなかった。笑顔を向けて、こう語った。
 「そうですか。会長をお辞めになられるのですか。私は、自分のことを誇りとし、自分を称賛できる人生が、最も立派であると思います」
 含蓄のある言葉であった。立場や、人がどう思い、評価するかなどは、全くの些事にすぎない。自分の信念に忠実な、誠実の人生こそが、人間としての勝者の道である。
  
 この日、伸一は、神奈川県横浜市に完成した神奈川文化会館へ向かった。翌十四日に行われる開館記念勤行会に出席するためである。午後八時過ぎに、新法城に到着した。
 文化会館は、地上十階、地下二階建てである。赤レンガの壁が重厚さと異国情緒を醸し出していた。
 恩師・戸田城聖は、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、ここ神奈川県横浜市にある三ツ沢の競技場で行われた東日本体育大会「若人の祭典」の席上、「原水爆禁止宣言」を発表している。いわば、神奈川は、創価学会の平和運動の原点の地である。
 会館の前は山下公園で、その先が横浜の港である。船の明かりが揺れ、街の灯が宝石をちりばめたように、美しく帯状に広がっている。「七つの鐘」を鳴らし終え、平和・文化の大航路を行く創価の、新しい船出を告げるにふさわしい会館であると、伸一は思った。
 星空に汽笛の音が響いた。新生の朝が、間近に迫りつつあることを彼は感じた。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十九を読んだ感想と決意 島幸弘

人生の大きなターニングポイント、そこには壮絶な命の葛藤とそして新たなステージに立つ勇気と決意が必要である。池田先生のご境界は計り知れないが常にわが身に当てはめ自分自身の歴史に照らし合わせた時に過去現在未来へとまさしく人間革命の人生を共に歩んでいる自負を確認することができる。人生幾山河~様々な苦境に立たされることも数多くあるが、常に一歩前進!勇気ある前進をして行きたいものだ。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十八 (聖教新聞より転載)

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山本伸一は当初、一九八九年(平成元年)九月に中国を訪問し、建国四十周年の関連行事に出席する予定であった。しかし、諸情勢から延期を余儀なくされた。彼は代理を立て、鄧穎超あてに、明春には必ず訪問する旨の伝言を託した。また、周夫妻の等身大の肖像画を贈った。
 “中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。
 そして翌九〇年(同二年)五月、創価学会第七次訪中団と友好交流団の計二百八十一人が、大挙して中国を訪れたのである。それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、関わりを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。
 伸一と峯子は、この折、再び北京市・中南海にある鄧穎超の住居・西花庁を訪問した。
 彼女は八十六歳となり、入院中であったが、わざわざ退院して、玄関に立ち、伸一たちを迎えたのだ。彼は、駆け寄って、手を取った。彼女の足は既に不自由であり、衰弱は誰の目にも明らかであった。しかし、頭脳はいたって明晰であった。
 伸一は、祈る思いで訴えた。
 「人民のお母さんは、いつまでも、お元気でいてください。『お母さん』が元気であれば、『子どもたち』は皆、元気です」
 彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、自身が愛用してきた玉製の筆立てを、「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。
 彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。これが最後の語らいになったのである。
 鄧穎超は、二年後の九二年(同四年)七月、八十八歳で永眠する。しかし、彼女が周総理と共に結んだ、両国間の友情と信義の絆は、民衆交流の永遠の懸け橋となった。
 心は見えない。しかし、その心と心が、固く、強く結ばれてこそ、真実の友好となる。

 〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十八を読んだ感想と決意 島幸弘

誠実なこころで自分人生を生きる!そんな思いをさらに深く決意する今回の鄧穎超さんとの語らいであったと思う。日中友好の懸け橋はこの歴史の事実があって現在に続くが、2017年の現代、時代は変化変化との池田先生のご指導の通り、政治の動静は日本との緊張が現出し末法の様相が色濃くなっている。民間外交の重要性がいや増して世界平和の大きな影響となるだろうと思う日々である。

本日北海道の札幌に向けて創価中古仏壇B604出荷いたしました!

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中古仏壇B604はしっかりとメンテナンスして梱包しました。札幌のお客様から追加でクリスタル仏具セットもご注文頂きました。今日は茨城県古河市は強風の2月に入り雨がないので畑が乾燥していて、砂嵐状態の中ヤマト家財便さんも必死に梱包してくれました。

無事の到着、お客さまから喜んでいただけますように祈りながら見送りました。

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〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十七(聖教新聞より転載)

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鄧穎超は、念を押すように言った。
 「一歩も引いてはいけません!」
 彼女の顔に笑みが戻った。
 「前も敵、後ろも敵」という断崖絶壁のなかで、何十年もの間、戦い続けてきた人の言は重たかった。進退は自分が決めることではあるが、山本伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。
 彼は、鄧穎超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。
 伸一は、彼女との約束と日中友好の誓いを果たすために、翌年の一九八〇年(昭和五十五年)四月、第五次訪中へと旅立った。
 この時、鄧穎超は、伸一夫妻を北京市・中南海にある西花庁に招いた。彼女が周総理と一緒に、長い歳月を過ごした住居である。
 伸一たちが通された応接間は、人民大会堂が完成するまで、総理が外国の賓客と会っていた部屋であるという。さらに、彼女は、「ぜひ、ご覧いただきたいと思っていました」と言って、中庭を案内した。海棠の花が淡い桃色のつぼみをつけ、薄紫のライラックの花が芳香を漂わせていた。
 庭を散策しながら友誼の語らいは続いた。
 伸一が次に訪中したのは、八四年(同五十九年)六月のことであった。鄧穎超は人民政治協商会議の主席として人民大会堂に伸一を迎え、中日の青年交流をさらに拡大していきたいとの希望を語った。
 五年後の八九年(平成元年)六月四日、中国では第二次天安門事件が起こった。
 以来、欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国際的に孤立した。
 伸一は思った。
 “結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。それが人間の信義であり、友情ではないか!”
 窓が開かれていてこそ対話も可能となる。

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十七を読んだ感想と決意

人間の信義・人の真心は自分自身が自分に誓った自分自身の本質となる。時を経て自分自身の誓いを自らが違える事により自分自身を信用できない自分が存在してしまう事になる。素直な自分、ありのままの自分、それで良いと確信できる御書に桜梅桃李がある。桜は桜のままで良い、桜が梅になる必要はない。そのままの個性こそが世界で一つの自分自身の価値なのだ。「世界に一つだけの花」という大ヒットした歌がある。私も自分自身の価値を自ら創造してこれからも生きて行こう!

〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十六 (聖教新聞より転載)

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山本伸一は、一冊のアルバムを用意していた。そこには、故・周恩来総理の日本への思いに応えたいと創価大学に植えた「周桜」、全青連の青年たちと記念植樹した周恩来桜と鄧穎超桜の「周夫婦桜」、創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。
 伸一は、アルバムを一ページ一ページ開いて、鄧穎超に見せながら、「留学生も、しっかり勉強しています」と、近況を紹介していった。彼女は、写真に視線を注ぎ、満面に笑みをたたえて言った。
 「日本へ来る前から、創価大学には、ぜひ行きたいと思っていました。しかし、その時間が取れずに残念です」
 そして、前年九月の、伸一の第四次訪中を振り返り、懐かしそうに思い出を語った。
 伸一は、その折、子々孫々の日中友好のために、周総理の精神と輝かしい事績を紹介する周恩来展の日本開催などを提案していた。
 迎賓館での語らいでは、この周恩来展をはじめ、日本訪問の印象、天皇陛下との会見の様子、また、「四つの現代化」に取り組む中国の現状などに話が及んだ。友好的な意見交換がなされ、時間は瞬く間に過ぎていった。
 鄧穎超は伸一に、「ぜひ、また中国においでください」と要請した。彼は、「必ずお伺いします。中国での再会を楽しみにしております」と笑顔で答え、約四十分間に及んだ和やかな語らいは終わった。
 皆、席を立ち、出入り口に向かった。伸一は“鄧先生には、どうしても伝えておかなければ……”と思い、口を開いた。
 「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」
 鄧穎超の足が止まった。伸一を直視した。
 「山本先生。それは、いけません。まだまだ若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります。人民の支持がある限り、辞めてはいけません」
 真剣な目であった。周総理と共に、中国の建設にすべてを捧げてきた女性指導者の目であり、人民を慈しむ母の眼であった。
 
〈小説「新・人間革命」〉 大山 二十六を読んだ感想と決意 島幸弘
 
 池田先生の創価学会会長を辞めるとのニュースを私はテレビで拝見し、衝撃を受けました。当時22歳、自分自身の決意で学会活動を始めた時期であり男子部で薫陶を受けて情熱的に戦いだした時だった。その衝撃は言葉で言い表せないほど自分自身の命に鮮明に刻まれている。即座に担当の幹部に連絡を入れた事を思い出しています。人生は変化変化だよ!との師匠のご指導もありますが、私にとっても根底を揺るがす大きな変化であったことだけは事実であった。獅子よだからこそ一人立つ精神だ!私の信心の腹は決まったのだ。